WEBマーケティングとか優しさとか 木村圭宏 

人生に意味などない 意味付けは自分自身で

 アルバイトの記憶 高校 大学社会人時代編

 アルバイトの記憶
一番最初のアルバイトは高校一年の冬、ガソリンスタンドからはじまる。
 スタンドでの給油から契約先の民家の灯油タンクへの給油、洗車など配達担当の叔父さんに気に入られ娘を紹介されそうのなったり、麻雀誘われたけど断ったりしたが、いつも昼飯を奢ってもらった。この頃初めてカニフラワーを食べてこんな美味しいものがあるんだと思う おぼこさだった。
 GASスタンドのバイトは高校卒業まで毎年お世話になった。
 

春には夕刊紙の配達

地元紙 紀伊民報の配達はクラスメート染谷君のヘルプで春休みの一月位は休みたいので代理配達と集金業務を頼まれた。この時の配達エリア神子浜、文里地区でのSさんの事は、今でも記憶に残る。Sさんはおよそ半年くらい購読料を溜めているらしい猛者だった。バイト代は集金に応じて貰える歩合性だったので染谷君からは、Sさん集金できたら木村の報酬で取っていいと言われた。

 毎夕配達時に玄関からSさんに声をかけた。40代位の細身小柄なおじさんだった。今月は支払いお願いしますっと 奥の部屋から「おう!」と一声 返す刀で「ありがとうございます」簡単な言葉のやり取りに集金日への期待は膨らむ。

 前日に明日の集金お願いします と声かけふた月分払うと返事 「まあいいか」と心の中で妥協 集金当日2ヶ月分の領収書を持って訪問 玄関で渡されたのはビニール袋に入れられた一円玉の山 残りの配達集金もあるので3000枚近くの枚数を数えるすべなく疑いもなく領収書を渡した。実際は1300枚くらいしか無く。

 バイト代からの天引き 「おぼこい田舎のボンボン高校生が味わった汚い大人の存在を気づかせてくれた良い経験だ」

 49年経っても忘れない経験である。

夏には日置川にあった 鮎の養殖場、小山君の紹介これも2年間同じく卒業まで通うこととなる。稀にゴルフ場キャディ補佐など、卒業後は就職も薦めたれたが、どうしても音楽を続けたくて大学に行って軽音楽部に入ることを決めていた。
 大学中も行くいつかのバイトをした。記憶にあるものは警備員、居酒屋、ライブハウス、ゲーム喫茶、クリスマスケーキ製造ライン、結婚式場給仕、換気扇フィルターのセールス、
一番きつかったのはクルスマスケーキの製造ラインオールナイト5日間 いちご担当で流れてくるケーキのホイップいちごを置くだけ、まるでチャップリンのモダンタイムスの世界、朝方勤務先の神戸屋パンの社員銭湯に入って始発で帰り翌日も20時から勤務、瞼の裏にいちごが流れてくる悪夢にうなされる5日間これは二度と応募しなかったなW  社会人アルバイト時代に続く後日「追記」

 

9.8追記

社会人 アルバイトの記憶
 大学卒後は、ヘルプで入ったダンスホールのバンドマンか就職かの選択の結果 服飾関係のメーカーに就職した。それは、学生時代から続けていたバンド活動を継続できる環境が揃っていたこと(転勤有無、始業時間)などから選択した。3年後支店長の交代により 約束は反故され本社東京の転勤辞令が出た。その辞令を固辞した為に3ヶ月の減給を受けることになった。元々安い月給の上に1割の減給は、内職手配で数万円を稼いでいたことが勤務規定の改正で禁止となり、車ローンを抱えていた身としては、6時定時に終業するなどを利用して自宅近くの焼肉店で深夜にアルバイトする事になる。後にバンドメンバーだった有本氏がこの店の店長になるおまけ付きだったW
   世間ではバブル時代に入り好景気、転職黄金期に入る頃で、就業先に限界を感じていた。
(片山社長、石原専務、子安弘一、岸井隆、小島修一、西原課長、堀井係長や林口、戸田さんや谷口、那谷、中村先輩などには大変お世話になり今でも感謝しています。)
  この頃に年収がほぼ倍になる位のライセンスビジネスを扱う専門商社に転職することになった。
 結婚を機にバンドやアルバイト生活と無縁になったのは20も後半の頃だった。

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